植松夫妻のパース便り2



パースのサンセット
 パースにお住まいの植松夫妻はカントリー・ラインダンスが趣味でこのクアラルンプル、スバンジャヤの当ホテルのコンペティションでいろいろな賞をさらっていった事はロングステイ行12で書きました。その後パースへ帰られて何通かメールを頂きました。内容が面白く、興味深いパースの写真も数多く送っていただきました。私達夫婦だけが独占するには惜しいと思い植松夫妻の許可を得てホームページに掲載いたしました。
 2005年に年が改まって、2ページに入りました。頂いたメールをあまり修正することなく載せて行きたいと思います。
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目次
植松さんご夫妻の簡単なプロフィール
2005年 5月29日 Corby事件
2005年 5月28日 Perthで身が縮む日
2005年 5月26日 KLでのコンペが中止
2005年 5月22日 Perthの風
2005年 5月 1日 ミッドランド(Midland)のロデオ大会(Rodeo Competition)
2005年 4月 6日 Radio Fremantle
2005年 4月 4日 Sunset Wedding
2005年 2月17日 Perthの気候
2005年 2月16日 大道芸人
2005年 2月 8日 NASHVILLE紀行
2005年 2月 3日 ご無沙汰いたしました!
2005年 1月 1日 あけましておめでとうございます!
植松夫妻のパース便り1へ (2004年版)
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5月29日 Corby事件

29 May 2005 記
 昨日の新聞、The West Australian [Saturday May 28 2005]は紙面トップに、大きな活字のheadline 2行
 Bomb plotter: 2 1/2 years
 Dope smuggler: 20 years
 と、法廷で判決文を聞いて泣き崩れるSchapelle Corbyの顔写真が掲載された。
 何故、20年もJailに。これがオーストラリア市民の感覚である。
 ここ数ヶ月、オーストラリアではCorbyに関する話題が持ちきりであった。
 Corbyは、はたして有罪なのか、無罪なのか、電話による世論調査もあった。ほとんどの人はNot Guiltyである。
 一昨日、5月27日(金曜日)オーストラリアの民放2社、チャネル7とチャネル9は朝9時からインドネシアのDenpasarの法廷で行なわれたCorbyの麻薬密輸裁判を放映した。われわれ日本人から見ると、裁判所にビデオカメラが持ち込まれること事態驚きであるが、法廷の様子や裁かれるCorbyの様子が刻一刻放映された。
 判決文の朗読に3時間かかると、聞いていたので午前11時半ごろからTVを見た。画面は法廷の様子とComentatorの説明、それに下段にTelopが連続して流れていた。
 Telopを見ると、Corby事件の概略や人々の反応がわかる。政府の対応も。
Corby was arrested October 8 2004, on arrival in Bali
4.1Kg Marijuna found in her Boogie Board Bag
Customs officer testified Corby admitted drug was hers
Victorian prisoner claims baggage handlers could have planted drugs
Corby 27 is former Gold Coast Beauty student
Prosecution has demanded life sentence
Death penalty possible, but considered unlikely
Aust Govt negotiating to have any sentence served here
Three judge panel outlines prosecution and defense cases
Observers say judge’s remarks may not reflect their findings
Corby’s mother says daughter is innocent and will be coming home
Judge reads summary of Schapelle Corby’s personal testimony
PM John Howard calls on Australians to accept verdict
Howard says our nation feels Corby but must trust Indonesian systems
Judges say charge against Corby of importing drug has been proven
Corby proven “ legally and convincingly“ guilty of committing Criminal Act
Courtroom interpreter told to remove TV microphone
Bali Newspaper predicts maximum 10 year sentence
Huge media contingent outside Denpasar court
Corby team expected to appeal if verdict is guilty
Appeal process could take months
 われわれ旅行者は自分の荷物の中に他人が麻薬を入れても、他人が入れたことを証明するのは不可能に近い。Corbyのサーフボードのケースに鍵がかかっていなかった(通常、鍵をかけない)ので、容易に麻薬を入れることが出来る。また、少々の鍵は合鍵で開けられる。Corbyの場合、オーストラリア空港で荷物を取り扱う作業員が入れた、と見られているが、今のところその人を特定出来ていない。
 旅行者の中には、低級な鍵のカバンを手荷物として預ける場合、カバンにテープを巻きつける。さらにマジックで合いマークを入れる人もいる。
 このCorby裁判で、Perthに住んでいる日本人は“Melbourne事件”を思い出した。
 1992年6月、ヘロイン13Kgを持ち込んだとして、日本人5人(内女性1人)がメルボルン空港で逮捕され、裁判の結果、25年から15年の実刑判決を受けた。
 一行は7人のグループ観光で、MalaysiaのKuala Lumpurで現地ガイドから“荷物が盗まれた”と言われ、代わりのスーツケースを受け取った。これが、2重底になっていて、ここにヘロインが入っていたのである。
 日本人の常として、この麻薬は“われわれは関係ない”との思いから、逮捕された当初、有能な通訳、弁護士に依頼しなかったことが、積極的な密輸否定の論理を展開できず、不利な裁判結果になったと言われている。
 私たちは日本から来られるお客さんに、他人から絶対に荷物を預かるな、たとえ、赤ん坊でも一寸の間、預かって欲しいと言われても、絶対NOと言え。われわれ日本人は優しい気持ちの持ち主が多く、また、相手を疑う習慣がほとんど無いからである。

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5月28日 Perthで身が縮む日

27May 2005 記
 海外に住んでみて、精神的につらい思いをする日がある。
 ここ、オーストラリアでは、毎年4月25日はANZAC Dayで、休日。各地で、戦没者慰霊の祭典が行なわれる。私たちが住んでいるRetirement Villageでも式典がある。都市では公式のSeremonyがあり、退役軍人のパレードもある。
 第一次世界大戦で、トルコのGalipoliでオーストラリアとニュージランド連合軍がトルコ軍と戦った際、双方あわせて20万人もの戦死者がでた。この戦死者を慰霊する記念日としてANZAC Dayが設けられた。今年はその100年目を記念する式典がGalipoliで行なわれた。
 ANZAC Dayが近づくと、メディアは第一次、第二次世界大戦中の話題を取り上げる。新聞やTVで。Galipoliで戦った人々がTVのブラウン管に写る日である。
 戦争映画は誇張もあると思われるが、昔の日本軍隊が鬼畜のように演出されている。確かに、非人道的なケースもあったと思われる。捕虜について取り決めたジュネーブ条約に違反した人々はすでに裁かれているが、いつまでもこの暗い事実は残る。
 この時期、日本人が単純な若者や右翼的な人から嫌がらせを受ける可能性がある。知人が自宅前にいると、自動車の中から“Go Home”と叫んだ若者から物を投げつけられたことかある。
 Perthに住む私たちを悩ませるのは日本の捕鯨である。捕鯨について、年々世論はきびしくなっている。Perthの邦字新聞(月刊)JA Newsが捕鯨賛成論者の記事を何回か連載した。英語の対訳つきで。いわゆる科学的調査の捕鯨の正当性についてである。
 ここでは、すこし沖合いに出ると、鯨に接する確率が大きい。したがって、週末には、Whale Watchingの船が近くのHillarys Boat Harbourから出ている。オーストラリアの人々は鯨に接する機会が多いので、捕鯨問題には関心が高い。ときどき、砂浜に乗り上げた鯨を介抱し、沖に押し出す写真が新聞に掲載されるが、人々の努力は並大抵ではない。
 以前から、オーストラリアの人々は鯨を愛するゆえに、捕鯨を止めてほしいと言ってきたが、今回は政府レベルの主張になってきた。
 これには日本の論理は通用しない。論議の土俵が違うからである。私は全面的な捕鯨禁止に賛成している。
 私の体験から、日本の自治体は漁業関係者の意向を尊重し過ぎると、判断している。日本政府においても然りであろう。私の少年時代、町は半農半漁で、我が家は幾艘かの漁船を持っていた。イカナゴ漁の季節には、淡路島や四国から来た猟師たちが我が家に泊まり、早朝から漁場に行っていた。
 また、所有していた農地によって、食糧は充分賄え、市場に果実類や野菜を出荷していた。
 戦後、農地が減り、多くのため池が埋め立てられた。公共の池もあった。自治体が提示してきた農業用水利権の補償額は何十万円であった。
 自治体は海岸沿いを埋め立て、公共用地を作った。長さ1キロほど、海岸から沖に50m足らずである。この埋め立てによる漁業補償に、何億円かを、細々と猟師をしていた何軒かの家に支払った。すでに、多くの網元が漁業に見切りをつけ、廃業していた。我が家もそうであった。この漁業権補償金額の大きさについて町中の話題になった。埋め立てによって、収入にほとんど影響しないことをわれわれは知っているからである。
 日本は海に囲まれているので、海洋資源を大切に取り扱いたい気持ちはわかる。しかし、遥か南氷洋に出かけて、捕鯨についての、過去の実績を維持する必要があるのだろうか。私はNoである。
 わき道にそれるが、歴史の教科書、靖国神社参拝は他国から干渉されるべきでないと思っている。国家としてのIdentityを尊重するからである。しかし、捕鯨の慣行権?は放棄しても、国のIdentityをまったく損なわない。
 このところ、Perthの新聞、テレビは日本の捕鯨を取り上げている。先週、土曜日、The West Australianに掲載された、漫画家Alstonの風刺漫画(Cartoon)を紹介しよう。私は日本のScientistとして、こちらの方に紹介されているので“いや、困った。困った”である。

捕鯨に関する最近の”The West Australian”記事のHead Line
Tuesday May 17 2005p 11 Pressure mounts to ban all whaling
Wednesday May 18 2005Top Australia’s bid to ban all whaling
P 18 Some pro-whalers landlocked
P 18 Japan’s whale hunt
P 18 Delicacy ends up in school dinners
P 18 “only a small fraction of the Japanese eat whale meat regularly”
P 18 Australia leads push to block whale slaughter Phone Poll ;Yes or No
Saturday 21 May 2005p 64 Passions surface in whale debate
Friday 27 May 2005p 15 Science drives whaling, not cuisine, says Japan


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5月26日 KLでのコンペが中止

 8月、Kuala Lupurで行なわれる予定の第3回Asian Pacific Dance Championshipsが中止になりました。日本から昨年を上回る人が参加を予定していたのですが、----。皆さん大変残念のご様子。勿論、私どもも。
 最近の中国での反日運動の影響で日本企業は海外の他の生産拠点を考えているようです。
 中国は地方の賃金は低いので、家内工業的な生産は大都市から何百キロも離れた町?で行なうようですが、大きな工場は大都市に作らなければならないようです。いまや、日本企業にとって、中国は不安定要素が非常に大きいのが問題のようです。
 日本と中国との関係で今ひとつ難しいのは言語の問題と思います。
 20年ほど昔の話ですが、大きな商談で、中国語と日本語との通訳で、意思が上手く通ぜず、トラぶったケースを同席していた知人から聞いた事があります。同じような漢字を使うものの、微妙な表現の違いが災いしている---私の独断。(英語で話し合えば問題は起きなかったかも)
 日本から距離は遠いですが、英語圏で、物価が安く、政情安定な国としてMalaysiaが一番、と思います。物流がポイントでしょうか。

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5月22日 Perthの風

 初めてPerthを訪れた10年ほど前、住んでいた日本人の方から“Perthは世界の中で4番目に強い風が吹く都市である”と聞かされた。強風の基準やその順位の根拠の説明は無かったが、3週間ほどの滞在中、風が強いと感じることは無かった。
 その後、海岸に近い造成地の一区画を買い、家を立てるための建築確認申請をした際、許可条件として、すべての屋根かわらは釘で固定することであった。
 家の裏手は3メートルの天然石の石積みでかさ上げされ、その下は公園であった。今の家に引越しする前は、朝夕、そのFlinders公園を散歩した。30−40分かけて。大きな池が2つあり、水鳥の群れを眺めるのが日課であった。
 家の通りの名前はCarradale Glen。Glenはスコットランドやアイルランドでは峡谷、谷間を意味する。公園とは崖で仕切られているから、この名前が生まれたのであろう。この通りは行き止まりで、奥まったところは車が回れるように大きく膨らんでいる。このふくらみがハンドバッグの手提げの金具の形に似ているところから,このような行き止まりの道はCal de sacと呼ばれている。なぜか、フランス語である。住んでみてわかったが、Cal de sacの通りは、防犯について安全性が高いと思った。
 家の裏手は公園の中で、一番細く、くびれた部分であった。と、言っても、幅は約50メートルほど。また、その小さな谷筋は南西方向に伸びていたので、Fremantleの方角から吹く風の通り道になった。公園も新しく作られたので小さな木が比較的に密に植えられていた。成木になるまでの歩留まりを考えてのことである。家からその木々を見ると、ほとんどの木が風下に傾いていた。
 当時は毎夕、20分ほど海で泳いだ。夕陽がインド洋に沈む頃である。夏の間は気持ちよく泳げた。3月、4月と、秋も深くなってくると肌寒い。この時期は風が強く、砂浜に風紋が出来ていることが多かった。そして、飛んでくる砂が肌に当たって痛かった。しかし、海の中は暖かであった。それで、海中から出るのが大変つらかった想い出がある。Perthの強風の実感であった。
 写真は2005年5月19日午前7時、Dampier公園散歩の際のスナップ写真である。木々が北東に傾いている。南西方向から吹く風の仕業である。
 5月16日(月曜日)早朝、すごい暴風雨であった。日本で経験した雨交じりの台風のようであった。われわれが住んでいるSt Ives Northshore Villageにはたいした被害は無かったが、20Kmほど南のPerth中心部は被害があった。
 翌日の新聞、The West Australianは、この強風で過去20年間、最悪の被害をもたらしたと、多くの写真でその実情を紹介した。その時の最高風速はUp to 250Kmpとのこと。毎秒70mに近い。
 暴風の被害はTwisterと呼ばれる竜巻によるものである。被害の足跡はPerth中心部の海岸地区に始まり、南の方に広がっている。特に、Perthから200Km離れたBunbury市の住宅被害が大きく、多くの家々が破壊され、100年以上経った大木が根こそぎ倒されていた。当然、送電ラインはズタズタである。オーストラリアでは木の生長が早く、庭や家の近くに大きな木がある場合が多い。これらの倒木が被害をいっそう大きくしている。
 秋、冬になると、南氷洋の寒気の高気圧がオーストラリアの南西部に張り出してくる。一方、北から湿った暖かい空気が入り込んでくるので、上空には厚い雲の層が出来る。ここから局所的に空気が地表に降りてくる。その形は漏斗状である。降りてきた空気は地表で舞い上がる。この舞い上がる空気は筒状で時計方向に回る。このとき地表面の暖かい湿った空気が巻きあげる風力に寄与する。この筒状の強風範囲は最大100m、風速は400kmhに達するようである。これが移動して次々と被害を及ぼす。
 その昔、扇風機について考えたことがある。当時、扇風機はフアンの回転数を強、中、弱に変えるだけであった。人間にとって、快い風とはなんだろうか。結論はそよ風である。常に一定の速度で送られてくる風は生理的には風では無い。身体に当たる風速の変化が生理的な風である、というのが私の持論だった。ランダムに送風の量が変わり、時には送風を止める扇風機があれば、と思った。しかし、このアイディアは実現できなかった。マイコン制御の家庭電化品が世の中に現れる20年も前のことである。

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5月1日 ミッドランド(Midland)のロデオ大会(Rodeo Competition)

ミッドランド(Midland)のロデオ大会(Rodeo Competition)
 ミッドランドはパースから内陸方向に十数キロ離れた古い町で、パースから出ている電車の一つの路線(Midland線)の終点でもある。
 家内と私はラインダンス仲間のオージー(Aussie)(オーストラリアの人)5人とミッドランドのロデオ大会を見物した。4月23日(土曜日)の夜である。その日は朝から天気はぐずついていたが、夕方近くなって快復し、昇り始めた満月がむら雲に見え隠れするようになった。
 ロデオ大会の場所はベルビュー(Bellevue)のミリタリー・マーケット(Military Markets)の中にある。マーケットはグレートイースタン・ハイウエイ(Great Eastern Hwy)からクレイトン・ストリート(Clayton Street)に入り、線路を渡った左にある。
 待ち合わせ時間、
午後6時45分のすこし前にパーキングに着いたので、会場入り口で仲間を待っていた。学校休みの期間であったので、見物に来る人々は家族連れが多く、カントリー・ハットをかぶりBootsをはいてかっこいいCowboy,Cowgirlスタイルの人が結構多かった。
 入り口の左側にカントリー・グッズの店があり、ハット、衣装、靴、ベルトが売られていた。ベルトの飾り金具やベルトにかかれた模様や絵には楽しいものがあった。ここで売られているグッズはロデオ・ファンに関心のある品ぞろいのようである。
 ロデオ会場の入り口の上に看板がある。Rodeo Arenaの表示である。会場に着くまで、Cowboyたちが暴れ牛や暴れ馬にまたがって、乗っている時間を競う土俵をなんと言うのだろうか?が、頭の中にあった。リング(Ring)が浮かんでいた。そうか、Arenaなんだ。辞書によると、語源はラテン語で、“(格闘技のための)砂地の意味”である。
 入場料、15ドルを払って会場内に入ると、カントリー・ミュージックが流れている。ハンバーガーやポテトチップスなどの売店、各種ドリンクの売店の前を通り、ロデオの会場に着く。アリーナーは柔らかそうな砂が敷き詰められた長軸の長い楕円形、
長さ60−70m、幅は30−40mぐらいで、その周囲三方は見物客のスタンドになっている。私たちは長軸の片方の下から2段目に席を取った。見物席からアリーナー(Arena)の柵の間は2mほど。
 やがて、7,8人のカントリー・スタイルの若い女性がアリーナーに入って、ラインダンスを始めた。オーストラリアではブーツ・スクーティング(Boot Scooting)と呼ばれている。良くそろった脚捌きである。やがて、国歌が流れ、全員起立。
 アリーナの中で参加したライダーが紹介される。そして競技が始まった。
 アリーナーの奥まったところは、競技に使用する牛や馬を縦列に入れるシェルター(shelter)が並んでいる。1、2、3、4、5、6と番号が書いてある。それに続いて競技者が退場するゲート、暴れ牛や馬を追い込むためのゲートがある。
   競技に使う牛や馬は順次シェルターに送り込まれる。はじめに入った牛は6番、最後に入ったのは1番である。シェルターは狭いので牛や馬は窮屈そうである。暴れ牛や暴れ馬にライダー(Rider)が乗り、シェルターのゲートを開くための準備に何人かの人がかかっている。牛の腹から背中にロープを回し、その一端をライダーが持てるようにする。牛の中には、嫌がって座り込むのがいる。これを立たせるための人もいる。とにかくこの準備が大変である。ライダーが牛、あるいは馬に乗りこむ。間合いを計って、ゲートが開かれる。そして、荒れ馬、荒れ牛に乗っている時間を競う。
 アリーナーの中にいる人は、ゲートを開く人、ライダーの名前・経歴、そして牛、馬の特徴を説明する司会者、それに競技が終わった暴れ牛、馬をアリーナーから退場させる人である。
 暴れ牛の場合は、牛の注意を落馬したライダーからそらせるために、牛を自分の方に引き付けるための仕事をする道化風の顔や衣装を着けた道化が2人がいる。この人たちは、暴れ牛の習性を十二分に心得ているベテランであることが感じられた。
 暴れ馬の競技では、ベテランが乗った馬が2頭いる。競技の終えたライダーが暴れ馬から乗り移るためと暴れ馬を退場ゲートに追い込むためである。この2人の乗り手の乗馬の巧みさ、連携プレーには感心させられた。
 アリーナーの周囲は高さ2.5mぐらいの鉄製のフェンスで囲われている。フェンスは横桟の入った幅2mほどの鉄製の枠をつなぎ合わせている。横桟のピッチは30−40cm。これはリング内の人やライダーが暴れ牛、暴れ馬の突進から避けるために、フェンスの上に駆け上がるためである。
 このフェンスの接続は多少の柔軟性(フレキシブル)を持たせている。隣り合ったフェンスは金具で2,3箇所接続されているが、暴れ牛や馬、あるいはライダーがフェンスに衝突してもフェンスは動き、衝撃のショックを和らげているのがわかる。フェンスの外側に、ところどころに太い丸太が打ち込まれていて、鉄製のフェンスが動いても、それを食い止めるようになっていた。
 私はいつもポケットに小さなデジカメを入れている。メモ帳の代わりである。O社製のピクセル数(Pixel)が3メガのものである。内臓のフラッシュが弱いので、薄暗いところや動きの早い被写体を写すのは難しい代物である。また、3倍ズームを使うと、光量不足で、スローシャッターになり、ピンボケ写真になる。このロデオの写真を撮るためには、被写体に近づくしかない。
 馬や牛が入れられているゲートに近い位置で写真を撮ろうとアリーナー沿いに通路の奥に行った。そこにフェンスを補強している丸太杭があったので、万一に備えてそれを楯にした。その位置から奥はロデオ大会をサポートするスタッフがいた。救急車が1台待機していた。なにしろ、ロデオではいつなんどき事故が起きるかわからないからである。
 デジカメはシャッターを押しても直ぐにその場面が写らない。程度の差はあるが、写真フイルムを入れたカメラではこのようなシャッターの遅れは無い。それで、あらかじめ遅れを勘定にいれシャッターを押している。このタイミングの取り方が難しい。
 何枚か写真を撮っているうちに気が付いた。
撮った写真の中に大小さまざまな丸い模様が画面いっぱいに写っている。最初、レンズに埃が付いたのか、と思った。実は、砂埃が舞い上がっているのである。それが、フラッシュの光で反射しているのである。近くで撮った牛やライダーの場面ほど、埃の影響が大きい。残念であった。
 場内の司会者は各ゲートの準備具合を見て、次は何番ゲートの出番で、ライダーの名前や経歴、そして牛の名前を紹介する。牛の名前が面白い。Natural Disaster, John Wayne, TNT(黒色火薬のこと)Lots of Spot(白地に黒の斑点がたくさんあった)など。聞くところによると、ライダーは抽選で乗る牛や馬を決めるそうである。
 私が撮影していた場所に一人の男性がいた。その人は手にストップウオッチを持っている。ロデオの計時係である。彼はときどき私にライダーの説明をしてくれた。曰く、4番ゲートはWAのチャンピオンである。あのライダーはオール・ラウンダー(All Rounder)―暴れ馬、暴れ牛に乗れる人―である。すこし離れたところのいた女性は、次に出場する少女のライダーのお母さんである。などなど。
 この計時係の人はときどき私が楯にしている柱に取り付けられているスイッチを押している。すると“ボー”と牛の鳴き声に似た音が会場に響く。彼の説明によると、ジュニアはゲートが開かれてから6秒以上、一般のライダーは8秒以上乗っていないと判定されない(Disqualify)、とのこと。その時間を越えると、スイッチを押しているのである。
 私たちのロデオ見物は2回目である。2002年1月、タムワース(Tamworth)(NSW州)でNational ChampionshipのSemi-Finalであった。大きな会場で、アメリカの大会にも参加している世界的なレベルのライダーも何人か出場していた記憶がある。暴れ馬や暴れ牛のライダーたちの素晴らしい乗りぶりに興奮した。
 しかし、地方のロデオ大会も面白い。いろいろな乗り手別の種目、見世物がある。例えば、司会者がMadden Masterと紹介していたが、2,3歳の幼児が羊(顔が黒い種類)の背中にまたがって、その周囲に2人の道化が介添えしつつ走る。一目散に走るのやら、途中で止まるなど多種多様。これらは会場を和ませる。
 少年、少女たちの競技では、ヘルメットをかぶり、胸と背中にプロテクターを着けて、子牛に乗ってゲートを出る。その勇敢さに観客は声援を送る。
 牛や馬の態度や表情も面白い。司会者が1000Kgと紹介した牛はライダーを振り落として、ワインの醸造樽の形をした赤色の置物に激しく頭づきをする。2回、3回と。これがすごい迫力がある。そして、牛はしばらくアリーナーの中を走り回る。どうだと言わんばかり、見得をきった千両役者である。このような牛もしばらく走らせると、興奮が収まってくる。道化役の2人はタイミングを見て牛を退場ゲートに追いこむ。このあたりの呼吸が面白い。
 馬の中には興奮が鎮まらず、激しくアリーナーの中を駆け回るのがいる。馬は速く動くので、2人の乗馬者が暴れ馬に沿ってアリーナーの中を駆ける。そして連携プレーで暴れ馬の気持ちを落ち着かせる。しかし、興奮が激しい馬の場合は新たに別の馬を場内に入れて馬の気持ちを静めていた。
 ライダーはヒラヒラ飾り布が付いたズボンをはいている。片手でロープを持ちバランスを保ちつつ、暴れ馬や暴れ牛に乗る姿は勇敢である。馬の場合は馬が後足をあげてライダーを振り落とそうとする。牛の場合は左右に揺さぶってライダーを振り払うようにする。ライダーが暴れ牛から上手く離れればよいが、それは簡単ではない。ライダーはロープが手袋から離れ難くするために粘着剤を使っているからである。ライダーが地面に落ちたときは、砂地とは言え、衝撃は大きいようである。打ち所が悪いとしばらく起き上がれない。すぐさま大勢の係員が駆けよる。このようなことが1回あった。
  約2時間半、競技やショーが続いた。最後はオープン競技である。WAの実績のある人が出場した。この人たちが一本の綱を片手に持ち暴れ牛の背中にまたがってバランスを取っている姿に感動させられた。


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4月6日 Radio Fremantle

Radio Fremantle
In Hillarys, every Tuesday morning we used to listen to the country music program of Fremantle Radio, FM station 107.9 MHz. Our house was close to the Whitfords beach and the distance to Fremantle is about 30 Km. It meant the signal losses of the radio waves over the sea were very few.
However, now in my house in Kallaroo, we can not receive the 107.9MHz . It may be because of effect of the lay of land and the distance from the Mullaroo beach which is about 1 Km away .
Today, Tuesday 5th April, we got up very early morning to go to Sorrento Quay to listen to Fremantle radio. We brought a MD recorder and an inverter to change DC12 volt to AC100 volt for the MD recorder from cigar socket.
At first sometimes the music from my MD recorder broke off. Why? I switched car radio on, and the music sound was no problem.
I thought it was some interference of radio waves So I lifted the recorder by using an Esky. Then we could listen to the music as it was very clear .
We enjoyed some familiar country music and Jacquie’s speech on Line dance activities.
Beautiful early morning it was! We also enjoyed Sorrento harbor and some lovely birds. Especially as many little white corellas were having a breakfast.
We left there at quarter past eight.
Thanks for the broadcast.
Shige & Yasuko. On Tuesday 5th of April 2005

 (管理人より−植松夫妻はここで聞きながら踊っていたのではないでしょうか!!)

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4月4日 Sunset Wedding

 一昨日、4月2日(土曜日)海岸に面したMullaroo Parkで、結婚式に出会った。時刻はインド洋に夕陽が沈んでゆく頃である。PerthやFreemantleの公園や景勝地で、この種の結婚式にときどきお目にかかる。それにしても、このCoupleは付いていた。つまり、久しぶりに雲ひとつ無く快晴であったからである。
 私どもがPerthに戻ったのは3月27日の深夜であった。空港から自宅に行く途中Mitchell Freewayで2台のパトカーが4車線の内の2車線をふさいでいた。何事かとタクシーの運転手に尋ねると、そこには豪雨による大きな水溜りができ、危険であるからブロックしている、とのこと。
 その後しばらく、天候は不順であった。珍しく、曇りか雨の日が続いた。特に、金曜日は一日中雨降り。それに、薄ら寒かったので、夕方予定していたラインダンスのパーティもキャンセルした。
 土曜日、早朝に雨があがり、久しぶりのPerth晴れであった。
夕方、Mullaroo海岸に散歩しようと、出かけた。Dampier Parkを横切って、Mullaroo Roadを歩いていると、軽快なリズムのホーンを鳴らしてLimousineが過ぎ去った。Barのある豪華な自動車である。手を振っていたので、われわれが通っているWhitford Dance CentreのLimousineと思った。それにしても、この時刻にどこに行くんだろうと、思いつつWalking、Walking。
 歩くこと、約15分、Mullaroo Parkに着くとBug Pipeの音色が聞こえる。そのあたりに、100人以上か、大勢の人が集まっている。周囲にはその集団を見ている人がいる。
 近づくと、結婚式である。司会の女性がスピーチしている。花婿、花嫁の紹介らしい。Coupleと介添え4人は海岸を背にして立っている。
式の参加者は夕陽がインド洋に沈んでゆく背景の前に立つCoupleを祝福している。素晴らしい舞台である。
 しばらくして、そこを離れたが、出合ったLimousineを思い出した。Parkingに行くとLimousineのそばに女性の運転手がいた。われわれの知り合いの車でなかった。どこかのFunction CentreのOrganiseですか、と尋ねると、この近くに両親が住んでいるので、この式が済むと、その家でCateringするとのこと。最後はお天気の話題になった。”お天気が良く、よかったね”
 とにかく、外に出かけるといろんなことに出会うものである。


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2月17日 Perthの気候

 Perth便りをお送りします。
 2月15日、Perthの最高気温は42度
 Perthの天気について、大雑把にまとめると、年間を通じて晴天の日が多く、雨の日は少ない。その雨も日本のように、しとしと、あるいは土砂降りが少なく、短時間のシャワーがほとんどである。雨宿りをすると直ぐやむので、傘を持たなくてもよいと言われている。その雨も明け方に降ることが多いので、“Perthは雨がほとんど振らない所である”と言った、朝寝坊の人がいた。
 Perthの上水道の水源は幾つかのダムに頼っているが、年中水位が低い。それに、芝生やプールに多量の上水を使うので、水を供給しているWater Corporationは年中節水を呼びかけている。
 先般、WA州の野党である民主党が州の北端、Kimberly地区のFitzroy河から延々何千キロの運河を作り、Perthに導水すると言う選挙目当てのProjectを発表した。何丁兆円と言う大規模の公共投資で目玉商品を作ったのである。
 私は、TVのニュースでこの運河案を聞いたとき、WAの沿岸沿いの砂地に運河を作るのは大変な工事だと思った。その後、新聞に運河のコンクリートの断面構造が発表されたが、私は水質の維持も難しい問題であると思った。
 それは、日本の河川の欠陥を長年見てきたからである。土砂で固めた護岸は自然のバクテリアが水を浄化するが、河川の川底、両岸すべてコンクリートで固めた小さな河川は、青ミドロが発生し、水質が非常に悪い。
 十数年ほど前に、中国の隋の時代に作られた大運河に運行されている夜行の連結船で、杭州から蘇州に移動したことがある。運河の水質は目で見、匂いを嗅いで見た感じでは、水質は悪くなかった。運河を往来する数多くの船からいろいろな汚水を排出するにも関わらず、である。人間による汚染と自然の浄化力がバランスされていること感じた。
 Perthの挨拶に、気温に触れることが多い。それにしても、2月15日は暑かった。Perthの最高気温は午後4時半で42度、6時で41度であった。その前日に発表された、この日の最低最高の温度予測は19−35であった。何故、このように7度も上回る気温になったのか、興味ある課題であった。ちなみに、2月15日のSydneyは35度、亜熱帯のDarwinが34度であった。
 時間がすこしずれるが、オーストラリア全土の気圧分布の予報図とSatelliteから撮った実際の気圧図を下記に掲げる。
 何千キロもの気圧の谷がPerthの方向に伸びている。
この気圧の谷にオーストラリアの内陸の熱せられた空気がPerthの方向に流れ込むのである。このとき、WA州の南に低気圧があるが、この気圧の谷が深くて、Perthの気温が2月ではめったにない42度になったと推測した。
 写真は海岸から10Kmほど内陸に入ったところで夕焼けを撮ったものである。
 午後7時であった。外は暑く40度近い温度であった。夕陽の方向がPerthの中心である。上空の雲の流れが気圧の谷に沿っていることがわかる。
 しかし、翌日のPerthの最高気温は29度であった。このように気温の変化が大きいのが特徴である。


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2月16日 大道芸人

 昨日、2月16日、久しぶりに電車でPerthへ。用件を済ませ、Perth一番の繁華街をぶらぶら。たまたま、大道芸人がSword Swallow をすると言うのでしばらく見物。 当日、撮った写真を何枚かお送りします。



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2月3日 ご無沙汰いたしました!

−Nashville、Tamworth行き−
 一年で最もいそがしい1月の行事が終わり、ほっとしています。
 1月中旬、アメリカのNashville(Tennessee州)Opryland Hotelで行なわれた代3回Country Dance World Championshipsに初参加。1週間、世界じゅうから集まったラインダンサーの演技を楽しみました。
 巨大ドームに覆われたOpryland Hotelの中庭とConvention Hall(部屋からの風景)
 コンペには、日本から、大橋ユキさんが参加され、活躍されました。Kuala Lumpurでの踊りによりいっそう磨きがかかった踊りでした。
 私たちは1月15日(土)午後1時からのTeam コンペ(Small Troupe)のsectionで踊り終わると、直ぐNashville飛行場に行き、午後5時発のLos Angels行きの飛行機に飛び乗り、Melbourneへ。
 滞空時間18時間の長旅で、1月17日(月)、午後4時過ぎTamworth空港着。翌日から、Calrossy中・高校のAuditoriumで行なわれている第13回 Australian Line Dance Championshipsに途中参加。
 翌日、18日(火)、Duo部門で、三つの踊り、19日(水)には Duo Free Styleで、5分間のダンスを踊り、ほっと一息。
 今年、日本から初めて数人のラインダンサーが参加、Solo、Duo、Team部門で会場を沸かせました。Tamworthの町でもいろいろな人から声をかけられたそうです。
 TamworthのCountry Music Festivalに、今年もNashville在住のHank佐々木さんが来られました。出演の合間に私どものダンス仲間と会いました。
 佐々木さんの左側に、Hankの歌:Cowboy from Japanを振付けたKarenがいます。この振り付けで、私たちはコンペ、Duo Standardで踊りました。会場は大喜びでした。 市川ヨーコさんもこの歌に振付けて、Duo Mixed Age部門で踊られました。大勢のContestantsでしたが、銅メダル。ユニークな振り付けで、聴衆の大喝采だったそうです。私どもがHankに会っている時間帯にヨーコさんたちがCowboy from Japanを踊りました。
 1月22日(土曜日は)Festival最後のEventであるParade。数十枚の写真の中から1枚。いつもながらCarton(ビール会社)の馬車が素晴らしい。それにDalmatian。美女。
 1月23日(日曜日)夜、Perth着。Big Projectは終了。
 その後、1週間ほどは、時差ぼけの解消。毎朝の散歩も元通り、気分爽快になりました。
 1月30日、午前6時散歩に出かける。われらが住むRetirement Vilage (St.IVES NorthShore)の正門。
 下記の記事は私どもが住んでいるRetirement Vilageが毎週発行しているNewsletterのトップ記事です。今は、いろいろな方が私たちにConguraturationと声をかけてくれます。
ST IVES NORTHSHORE
NEWSLETTER JANUARY 28th 2005
Shigeyuki and Yasuko Uematsu have just returned from the World Championships ofLine Dancing held in Nashville USA where they represented Australia as the “Aussie Two”.
Shigeyuki won 2nd place in the Male Gold Intermediate competition and Yasuko was the Female Gold Advanced World Champion 60 years and over. At the recent Australian held in Tamworth, they became the Australian Free Style Line Dancing Champions in the over 40 section. Congratulations on these amazing results after only 4 years in the sport.

 このような立派なTorophyを頂きました。
付記  私たちがNashville で、Individualを踊った翌日、公式のカメラマンが撮影したダンスのシーンを会場に備え付けのパソコンで見ました。写真に写ったわれわれの身体は踊っているようには見えませんでした。これでは写真の価値はありません。いつの日か身体が踊っているスチル写真を写してもらいたい、と思いつつNashvilleを離れました。



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2005年元旦

あけましておめでとうございます!!



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−カウント開始2005年2月3日−